世界が注目する再生医療の現状

ES細胞に比べて、倫理的な問題が少ないiPS細胞の利点を強調する、山中伸弥・京大教授(2008年3月、横浜市で)

人間は約60兆個の細胞からなる。元々は1個の受精卵が分裂を繰り返し、神経や筋肉、皮膚など体を構成する約200種類の細胞に変化したものだ。受精卵は様々な細胞に変化する「万能性」を持つが、いったん神経などに変化すると、もう別の細胞に後戻りできないと考えられてきた。

この生物学の常識を覆したのが、iPS細胞だ。皮膚細胞に数種類の遺伝子を入れるだけで、万能性を獲得する。こうした細胞の中の時計の針を巻き戻す現象は初期化(リプログラミング)と呼ばれ、iPS細胞の開発は「タイムマシンの開発」と称賛された。

iPS細胞の正式名は人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell)。iが小文字なのは、人気音楽プレーヤー「iPod」にちなんだという。

iPS細胞の登場で期待が高まっているのは、病気やけがで失った機能を回復させる再生医療の実現だ。

たとえば、心臓の細胞(心筋細胞)の一部が壊死(えし)している心筋梗塞(こうそく)の場合、iPS細胞から変化させた心筋細胞を、患者の心臓の壊死した部分に移植すれば、心機能の回復が期待される。インスリンというホルモンの不足で起きる糖尿病も、iPS細胞からインスリンを分泌する、膵臓(すいぞう)のβ(ベータ)細胞を作って患者に移植すれば、治療できるとみられている。

現在はまだ技術的に難しいが、iPS細胞を使い、心臓や肝臓など臓器を丸ごと作って取り換えることも、将来できるかもしれない。

iPS細胞の登場で再生医療の夢が広がったが、安全性の確認など実用化までには10年以上かかると予想されている。一方で、すぐにでも活用できると見られているのは、iPS細胞を使った病気の原因解明や新薬開発への応用だ。

それぞれ神経や筋肉の難病であるパーキンソン病や筋ジストロフィーなどの患者から、iPS細胞を作製して、神経や筋肉に変化させる過程で、どんな異常が起きているかをつぶさに観察することで、病気発症の仕組みが解明できると期待されている。新薬の効果や毒性もシャーレ上で確認できる。国内外の製薬業界も注目し、研究が加速している。

ES細胞に対する利点は?

iPS細胞の利点は二つある。一つは倫理的な問題が少ない点だ。同様に万能細胞として注目されている胚(はい)性幹細胞(ES細胞)は、人の生命の萌芽(ほうが)である受精卵を壊して作るため、実用化に向けた障壁になっていた。米ブッシュ大統領は、人のES細胞を作製する研究に連邦予算を付けることに強く反対。日本でも、人のES細胞研究が、国の指針で厳しく制限されている。

その点、iPS細胞は、皮膚細胞などから作製できるため倫理問題は少ない。「受精の瞬間」を人の誕生ととらえるカトリックの影響が強いイタリアなどでも、万能細胞の研究を推進できるようになった。

もう一つの利点は、患者本人の細胞から作製できるため、拒絶反応の心配がないことだ。

患者本人の遺伝情報を持たないES細胞では、拒絶反応が避けられない。これを回避するには、クローン技術を使って、卵子に、患者の皮膚細胞などの細胞核を入れた「クローン胚」を作製し、そこから患者本人の遺伝情報を持つES細胞を作る必要があった。

クローンES細胞は、人ではまだ作製に成功していないが、クローン人間作りにつながる恐れなどから、多くの国が作製を厳しく制限している。

iPS細胞を利用すれば、クローン技術を使う必要がなくなる。世界初のクローン羊ドリーを誕生させた、英エディンバラ大学のイアン・ウィルムット教授も、すでにiPS細胞の研究に着手している。

Q3 作り方は?

体細胞に遺伝子注入

iPS細胞の作製は簡単だ。「基本的なバイオテクノロジー技術があれば誰でもできる」(山中教授)という。  取り出した皮膚や胃の細胞などに2~4種類の遺伝子をウイルスを使って入れ込むだけ。遺伝子は、山中教授が、ES細胞の万能性にかかわる遺伝子の中から探り当てた。最初にマウスのiPS細胞を作った際には「Oct3/4」「Sox2」「Klf4」「c―Myc」の4遺伝子を使用した。  また、米ウィスコンシン大のジェームズ・トムソン教授らは、山中教授が使った「Oct3/4」「Sox2」の2遺伝子に、別の2遺伝子を組み合わせた方法で成功している。  しかし、これらの遺伝子は、細胞のDNAの狙った部位に入れることができず、細胞ががん化する恐れもある。そのため、使う遺伝子は少ないほどよく、山中教授は、4遺伝子のうち、がん遺伝子の「c―Myc」を抜いた3遺伝子でもiPS細胞を作製している。  作製法はこれだけではない。米スクリプス研究所のシェン・ディン准教授は、安全性の高い化合物と2遺伝子を組み合わせた方法でも成功した。安全で効率の良い作製法を巡って、世界が激しい競争を繰り広げている。

Q4 研究の現状は?

競争激化、国内拠点も着々

2006年8月に、山中教授がマウスのiPS細胞の作製を発表して以来、世界中で研究に火がついた。

昨年暮れには、米マサチューセッツ工科大(MIT)などのチームが、iPS細胞由来の造血幹細胞(血液のもととなる細胞)で、重症貧血マウスの症状改善に成功した。人間には赤血球が変形して、酸素の運搬能力が低下する「鎌(かま)状赤血球貧血」という遺伝病があるが、こうした病気の治療につながる成果という。

米ハーバード大などのグループは8月7日、パーキンソン病や糖尿病など10種類の病気の患者の皮膚などから、iPS細胞の作製に成功したと発表した。いずれも抜本的な治療法のない難治性疾患で、原因を解明することで新薬の開発につながると期待がかかる。

こうした激しい国際競争に対抗するため、日本でも研究拠点の整備が進む。

慶応大は、iPS細胞から作った神経細胞を、脊髄(せきずい)損傷マウスの患部に移植する実験で、マヒをある程度回復させる効果を上げている。交通事故など不慮の事故で脊髄を損傷した患者に希望を与える成果だ。国立病院機構大阪医療センターと共同で200種類以上のiPS細胞を作るバンクの設立も目指している。

京大は、マウスiPS細胞から、心筋梗塞などの治療に役立つ心筋細胞や毛細血管の作製に成功。ほかに、マウスiPS細胞からは、輸血治療につながる血小板(東京大)や、視力の回復に必要な網膜の細胞(理化学研究所)などができており、図のように国内の研究も着実に進展している。

世界各地の研究成果を、医療や創薬開発につなげるには、標準的な作製法や評価法が必要だとの意見が出始めており、研究者間で協調する動きもある。

政府、研究支援に本腰

「オールジャパン」体制へ

日本発の革新的な技術であるiPS細胞。「再生医療の発展に大きな可能性を切りひらく画期的な成果」(福田首相)として、政府も過去に例のないスピードで支援策を打ち出した。

文部科学省は、人のiPS細胞作製の公表からわずか1か月で、今後5年間で総額100億円の研究費を投入する計画を策定。今年4月には、京大iPS細胞研究センターを中心に、約20の大学などでつくる研究ネットワークを発足させた。政府の科学技術政策を決める総合科学技術会議は6月、iPS細胞の実用化に向けた工程表を策定し、世界に先駆けてiPS細胞を使った再生医療の実現を目指す。

こうした一連の動きは、国のバックアップなしに研究の結実はないとの判断が働いたからだ。米国は有望な研究には、個人の寄付や企業などの潤沢な資金が投資される。世界トップレベルの大学や研究機関が集まるカリフォルニア州やマサチューセッツ州は、数百億円単位の研究費を投じ、幹細胞研究を推進している。

iPS細胞の登場により、細胞や分析機器などの幹細胞市場は活性化している。米民間調査会社によると、米国の幹細胞市場は年率30%で成長しており、2012年には約460億円に達するという。

幹細胞市場の発展で重要になってくるのが、知的財産の確保だ。外国の企業に特許を押さえられると、iPS細胞を利用した再生医療が実現しても、医療費の高騰を招く恐れがある。

このため、京都大は6月、三井住友銀行など金融3社の出資をもとに、iPS細胞の関連特許を管理・活用する会社を設立。他大学や研究機関の知財も管理し、知財の面でもオールジャパン体制を目指す。松本紘・京大次期学長は「日本全体のiPS細胞研究を発展させたい」と意欲を語る。

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